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CSRは企業にとってきれいごとではなく、必要不可欠なリスクヘッジです。

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末吉竹二郎

国連環境計画 (UNEP) 金融イニシアチブ 特別顧問

vol.10 切り札はCSR

CSRは企業ではなく社会の側から出てきたもの

末吉さんが描く持続可能な社会を、現在私たちが置かれている状況と対比してみるといかがでしょうか。また、どうしたら持続可能な社会を築けると思いますか?

理想の社会とは、昔は「最大多数の最大幸福の実現」と表現されましたね。しかし資本主義社会がここまで進んできた結果、世界は、深刻な南北問題と、地球のキャパシティーを超える環境問題に直面しているわけです。より多くの人がより幸せになることを目標としてきたはずなのに、より少ない人がより幸せになり、より多くの人がより幸せではなくなる社会に向かっているようです。この矛盾を解決し、持続可能な社会を構築するためには、CSRがひとつのカギになると思っています。ただし、日本でもCSRが急速にもてはやされるようになり、どの企業も分厚い報告書を出すようにこそなりましたが、一部ではCSR自体が目的になっていると感じます。

ある日社長が「CSRをやるぞ」と言い、部下はあわてて書店に走り関連書を買ってくる。読んでみて、「なるほどこれがCSRか。ではやってみるか」と。それでやっても、当座できないことはないでしょう。それでもやるにこした事はないと思いますが、一過性のブームで終わってしまいはしないかと懸念されます。欧米におけるCSRの概念は、企業から出てきたのではなく、様々な歴史や文化、宗教を背景に社会の中から出てきたものなのです。うわべだけ真似をして、同じように機能するものでは決してないはずです。

CSRの概念は企業からではなく社会の側から出てきたものだとおっしゃいましたが、ステークホルダーとしてはどのような形で企業と関わっていくべきだとお考えですか。

今の日本のCSRは、欧米の投資家対策であるか欧米に進出するにあたっての必要性が動機になっている場合や他社がやるから内もやるといったケースがほとんどでしょう。欧米にならえば日本社会にCSRを求める社会的プレッシャーをつくる必要があります。社会が企業に何を求めるのか、ここを明確にさせないと、企業としても、自らのCSRをどう具体化して良いかわからないので、結果的に自分に都合良くつくってしまう。社会の側から求める気運を盛り上げなくてはなりません。わかりやすい例で、少し前に流行った「朝シャン」をあげると、若者の多くが「朝シャン」することによって環境への負荷が増大します。世界に目を向けると、毎日の生活用水を容易に利用することのできない人が20億人いると言われています。アフリカには、毎朝学校に行かずに5時間かけて20リットルの水を汲みに行って来る子どもが大勢います。

ステークホルダーが「御社はそれを知った上で毎朝晩シャンプーするよう勧めますか?」と企業に進言することが社会を良くするのです。メーカーが「シャンプーするのは3日に1度でもいいですよ」と言っても良いと思いませんか?日本にも、「お金儲けはどうぞしてください、ただしやり方には注文がつきますよ」といった企業に対して与える社会的プレッシャーを育てなくてはいけない。CSRを無視する経営なら株式会社のライセンスを取り上げるくらいの迫力があっても良いですよ。だってひどい経営をされたツケは誰が払うのですか?結局社会全体で負担しなくてはならないですよね。

生き方をパラダイムシフトする

個々の価値観と意識の改革も必要ですね。

実際には様々な部分に目を配る必要があり、複雑な取り組みが必要ではありますが、根本的なところで言えば、消費スタイルとも言い換えられる個人のライフスタイルをパラダイムシフトする必要があります。環境問題に関しては、1950年から現在に至るまで、国際社会が、地球資源の無限性を仮定して生きてきましたから、生き方そのもののパラダイムシフトですね。その過程ではサイエンティフィックな力も重要にはなってきますから、日本はこの部分で世界に大きく貢献できるでしょう。しかし、サイエンティフィックな力以前に、またそれ以上に必要なのは、今までとは違った人生観なのです。

私たちは、これまで無視してきた経済の外部コストを取り込み、その上で成り立つような経済の仕組みとそれを支える個人のライフスタイルを築かなくてはいけません。制約的な生活を強いられるのではないかという誤解もあるようですが、より少ないリソースで、より多くのベネフィットを享受できる仕組みがあるはずなのです。とにかく環境なくしては経済は成り立たない。その逆のまず経済ありきはもはや通用しないのです。

緩い規制の中に仕掛けをつくる

現在、環境税の導入が議論されていますが、規制の必要性も叫ばれていますね。規制に対する末吉さんの意見をお聞かせください。

こうしたことは、強制的な規制だけでは機能しないと思って良いでしょう。かといって自主的な志に任せるばかりでもコントロールがきかない。ですからポリシーミックスが必要です。その中で、規制はできるだけ少なくあるべきだと考えます。ポリシーミックスと言いましたが、ヨーロッパでの会社法の例は参考になると思います。これは直接的な規制ではなくフレームワークだけを定める間接手法です。企業にアニュアルレポートの作成を義務づけ、その中に従来の財務情報だけではなく環境情報も盛り込むことと定める。そうすると環境に対する活動をしていない企業は記載するものが伴わないため、何かしら始めざるをえません。

また、活動している企業でも、今のままの取り組みをそのまま掲載することで外部のステークホルダーに評価されるのかが気になってくる。つまり箸の上げ下ろしのようなことを指示するのではなく、フレームワークの中では自由にやってくださいという緩い規制で、自主的に、しかし積極的に活動の推進になるような “仕掛け”をつくったのです。日本にもこうした工夫が必要でしょう。

国際的な規制と日本人

国際的な規制に目を移すと、ISOにおけるCSRの国際規格化が注目されましたが、このような国際的規制の動きに対する日本の対応をどう見ていますか?

批判的な見方をせざるをえませんね。今後ますます国際的な枠組みでの規制が重要になってくると思われますが、こうした取り組みは、より厳しい方に合わせられていく、すなわちトップランナーのそれがスタンダード化してしかるべきなのです。独自色は結構ですが、欧米に対して「日本は日本だから自分たちのやり方で良い」で通せるかは疑問です。どうせいずれ巻き込まれるのであれば、ルールづくりの段階で参画し、自分たちの意見をひとつでも反映させる努力をすべきです。そもそも日本人は国際的な意思決定プロセスへの参加には積極的ではないですね。

日本のスタンスは概ねこうです。

  1. 国際ルールづくりに参加しない。
  2. 物理的に参画したとしても黙っている。
  3. 物を言っても「日本では昔からこうなんですよ」という類のローカルな発言しかしない。
  4. いざルールをつくろうとすると「それは困る」と反対する。
  5. しかし一度決まってしまうと切り替えは早い。「これにどう対処しましょう」とすぐに対策を練り始める。

少し滑稽に聞こえるかもしれませんが、これが実態でしょう。こうした体質は何とか変えていくべきだと思っています。

日本の独自路線にこだわる論者も多いと思いますが。

先ごろ東京証券取引所も、アメリカに倣う形で、上場企業に対し記載内容が正確であるとのトップによる誓約書の提出を義務付けることを決めましたね。有価証券報告書に虚偽や誤った記載が相次いだためですが、このニュースを知り、私などは「やはりそうなったか」という感想を持ちました。日本の精神構造は大変面白くて、一時は“アメリカンスタンダードすなわちグローバルスタンダード”と崇めたてておいて、アメリカでエンロンやワールドコムなど一連の問題が明るみに出ると、手の平を反したように叩くわけですよ。そもそもグローバルスタンダードなどはなく、アメリカンスタンダードの押し付けでしかないのだから日本がそれに荷担する必要はない、という風に。しかし私はそうした日本の識者たちの論議からは距離を置いた見方をしてきました。私が言い続けたのはこうです。「アメリカは悪いことをする人間がいるとすぐにそれに対応して法律や規制を整備する。しかしそれをもかいくぐる人間がまた遅からず出てくる。まさにいたちごっこだが、それでも、アメリカのつくるレギュレーションというのは、またたく間に世界に広まる。だから日本人がアメリカンスタンダードを批判してばかりいると、結局乗り遅れるだけになってしまう」──遅かれ早かれ日本もアメリカンスタンダードを受け入れざるをえなくなる状況がやってくると思っておりました。私が以前在籍した銀行もニューヨーク証券取引所に上場していますが、あちらでは非常に厳しい規制を受けます。ヨーロッパもしかりですね。それに対し日本はとても緩かった。それで良いと思いますか?

ある統計によると現在世界の中で、国民の中に10%程度の少数民族が存在している国は150カ国以上あります。25%でも100カ国あるそうです。ということは、世界のレベルでいえば一国の中に複数民族が共存しているのは当たり前なんです。ところが日本はそうではない。日本人の中には、だからユニークなんだと言う人が多いですが、諸外国から見れば日本も数ある国の中のひとつですし、数ある民族の中の一民族なのです。日本人がいくら自分たちがユニークだと主張しても、それは日本人側の一方的な思い込みにすぎません。現在のようにボーダレスでグローバルな世界では、私たちも多様性の中で生きていく以外に道はないのです。そろそろ内向きな議論に終始することから卒業しなくては。これからは如何に国際的に通用するルールをつくっていくのか、まさにルールの中身での競争が始まるのだと思います。

金融機関のCSR

最後に、金融が持続可能な社会構築のために果たすべき責任をお聞かせください。

金融機関が社会から与えられた機能は、社会の中で必要なお金を回していくことです。地球環境への危機感の高まりを機に、環境配慮型か非配慮型かという、融資先企業を評価する上で新しい判断材料が出てきましたが、これはまさに金融機関が本業を通して行うべきCSRですね。金融機関は社会に対して大きなパワーを持つと同時に、より大きな責任を負っているのです。従来は、金融機関が自ら私企業としての利益を守り、追求するために、業績の良い会社、回収が確実な会社に率先してお金を回してきました。ところがその利益が社会共通の利益と必ずしも一致してこなかった。それどころか場合によっては社会に不利益を被らせることもあったわけです。CSRの取り組みは、どんな企業にとってもきれいごとではなく、企業にとって必要不可欠な長期的視野でのリスクヘッジです。金融機関にとってもそれは例外ではありません。

社会の求めに応じられない企業に融資を行うのは金融機関にとって多大なリスクなのですから。要するに貸したお金を返してもらえなくなることを避けるために、融資先が環境経営を行っているか、また、人権に配慮しているか、透明性は保たれているかといったCSRの指標を、今後より積極的に取り入れるべきですし、実際にそうした動きが見られてきています。お金の面だけで企業を評価する時代は明らかに終わりました。実際に日本でも、大企業の不祥事により取引銀行が危機に陥っている生きた例がありますが、それを認識しきれていない金融機関もまた、生き残ることはできない時代なのです。

PROFILE

末吉竹二郎

国連環境計画 (UNEP) 金融イニシアチブ 特別顧問

1967年、東京大学経済学部卒業後、三菱銀行(現・東京三菱銀行)入行。
1994年にニューヨーク支店長、取締役就任。
1996年に東京三菱銀行信託会社(NY)頭取。
1998年に日興アセットマネジメント副社長。
2002年に退任後、2003年に 国連環境計画(金融イニシアチブ)特別顧問に就任。

著書に『日本新生―21世紀の切り札はCSR(企業の社会的責任)』(2004北星堂書店)

2005年1月7日

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